アメダス探索
| 山梨県 | |
|---|---|
| 大泉 | 幼稚園に隣接 景色がいい |
| 乙女湖 | ダム施設に立地 山梨県内アメダス最高所 |
| 韮崎 | 民間施設の駐車場に立地 |
| 甲府 | 地方気象台 最高気温40.7℃ |
| 勝沼 | 最高気温40.5℃ 40℃以上観測地点で最高所 |
| 大月 | 高校の校門に立地 |
| 上野原 | 消防署アメダスだが素晴らしい観測環境 |
| 富士川 | 水道施設に立地し訪問困難 |
| 古関 | 民家に立地し訪問困難 |
| 切石 | 市役所内に立地 |
| 河口湖 | 特別地域観測所(元船津測候所) |
| 山中 | 消防署アメダス |
| 南部 | 小学校の校門に立地 |
天気読みもの
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| (2) |
気象コーナーで使ってみたい言葉
春の言葉
とりあわせのよいことの喩え。日本画では画材の組みあわせに定形があって「梅にうぐいす、紅葉に鹿、牡丹に唐獅子、竹に虎」。そんな月並みな絵をからかった川柳が「猫でない証拠に竹を描いておき」。
春を送る
花を落とすの雨は是花を催すの雨(きょう花を落とした雨はきのうは花を咲かせた雨である)
中唐の大詩人白居易の「古草原」の中に、「野火、焼けども尽きず、春風吹いて又生ず」の二句がある。古めかしい草原にはえている草の生命力を表現したもの。
白居易が15歳か16歳のころに作った詩だが、王定保の『唐墌言』には、「句のかくの如き有らば、天下に居るも甚の難きか有らん」とあって、白居易が文壇に登場する契機として語られている。
唐の詩人孟浩然の有名な五言絶句「春暁」の最初の句で、春の朝のこころよい眠りを表現したもの。これを現代人は活用して、遅刻のいいわけなどにも使っている。処処啼鳥を聞く、夜来風雨の声、花落つること知んぬ多少ぞと続く。夜のうちに寒冷前線が通過して、すっかり晴れ上がったのだろう。気持ちのいい朝になるわけである。
北宋の詩文の大家蘇軾が、清明節の余韻を謳った「春夜」という詩の起句。清明は立春から15日目で中国では先祖の墓参りをする日。宮中では宴が催される。昼の賑やかさを思いだしながら、静かにふけていく春の宵の趣を表現している。
江戸時代に宝井其角が詠んだ「夏の月、蚊を疵にして五百両」の句は「春夜」をふまえたもの。夏の宵は蚊が湧くので半値にされてしまった。
初唐の詩人劉廷芝の、「白頭を悲しむに代る」と題する詩の中に、年々歳々花相似たり年々歳々人同じからず(毎年毎年花は同じように咲くが、それを見る人の身は、年と共にうつりかわって同じではない)、という対の二句がみえる。老いの哀しみと、人生の移ろいやすさを嘆いた、「白頭を……」の詩は非常に名高いが、中でも特にこの二句は、名詞句として誰の耳にも、なじみふかい。作者劉廷芝は、たまたまこのニつの句を得て喜色満面、「よし、こいつを中心にして作ってみよう!」と思って作ったのが、この詩であったという。
梅雨入り前、麦畑は黄色く色づき収穫期を迎える。麦にとっては初夏こそ実りの秋だといえる。二十四節気では小満がこの麦秋のころにあたり、江戸時代後期に著された改正月令博物筌には「小満の日を麦生日という。晴天なれば麦大いに熟す」とある。ところが戦後麦畑は減少し、麦秋の風景はすっかり珍しくなってしまった。
雲ひとつない快晴の夜は急激に気温が下がって、ときに霜が降りて育ち始めた農作物に深刻な被害を与える。八十八夜の別れ霜とはこのころに最後の遅霜が降りて、以後は強い冷え込みが見られなくなるという意味。ただし天気は気まぐれで、八十八夜を過ぎても冬の名残の寒気が南下して不意の遅霜に泣きを見ることがあるため解説に気を使う。
晩唐の詩人于武陵の『勧酒』という詩に、花発いて風雨多し、人生、別離足る(花に嵐のたとえがあるぞ、別れはこの世の常ではないか)、という有名な二句がみえる。和やかに別れの盃を交わす場面であるが、その底にはやはり人生の悲哀を訴えており、胸に迫るものがある。小説家の井伏鱒二によって和訳され、「さよならだけが人生だ」という最終句の和訳のみを知っている人も多い。井伏は照れくさい表現とも思ったそうだが、妙訳として広く人口に膾炙したのだから面白い。
春彼岸ごろに積もる雪を、南会津では彼岸のぼた隠しというらしい。「ぼた」とはぼた餅ではなく、山から切り出した丸太のこと。3月の南会津では、まだ数十センチの降雪があってもおかしくない。春先の残雪を利用して山から木材を運び出していたという。
岡田賞
乱射乱撃雨あられ
感謝感激雨あられ
大辞泉によると「冬眠中の虫を穴から誘い出す雷」の意。「立春後、初めて鳴る雷。はつかみなり」とも。太平洋側の地域では立冬以後雷鳴は珍しくなるが、本州南岸を低気圧が通過するようになると久々のとどろきに驚かされる。東京で雷を観測した日の月別の日数は、12月~2月までが0.2日、3月が0.5日、4月が1.1日。3月は2年に1度、4月は毎年雷が鳴る計算だ。
南岸低気圧といえば「雪の朝(あした)は裸虫の洗濯」という言葉もある。雪の翌日はたいてい穏やかに晴れるので、この陽気に春を感じて、虫たちがひょっこり這い出して来る。
藤つつじ思えば夏のはじめかな
夏の言葉
どんよりと薄曇りになり、風もなくただひたすら蒸し暑い様子を油照という。反対にギラギラと焼けるような日盛りの日を炎天という。昔は暑さに伴う体調不良はもっぱら炎天下で起こるとされたため日射病と呼んでいたが、日差しがなくても十分危険なことがわかって熱中症という名称に変わってきた。
夏の夕立は局地的で、馬の背の片側に降っても、もう片側は濡れてすらいないという意味。馬の背といえば、山道を歩いていて出くわす両側が深く切れ落ちた細い尾根には大抵「馬の背」と書いてある案内板が立っている。馬の背のように細長いということだ。こちらの馬の背でも、片側は大雨で、もう片側には一滴も降らないということがよくある。
夜、雨が降って昼間晴れると仕事がはかどって親方が喜ぶので親方びよりという。逆に昼に雨が降って夜晴れるのが奴びよりだ。中国のことわざにも「天下太平夜雨日晴」とある。
市井の処世訓を集めた「親父の小言」の中に「風吹きに遠出するな」とある。前後には「火事の覚悟をしておけ」「水はたやさぬようにしろ」とあるので火事への備えを言っているとわかる。
梅雨の初めに吹く湿った南風を黒南風という。南風を「はえ」と呼ぶのは沖縄地方の南を指す方言から出たらしく、おもに西日本では南寄りの風を「はえ」とか「はい」という。梅雨明け後の明るくなった空を吹く南風は「白南風」、沖縄では「夏至南風(カーチーベー)」という。
梅雨明け後すぐは、太平洋高気圧に大きく覆われて夏らしい晴天が安定して続くことが多い。この期間を梅雨明け十日と呼ぶ。太平洋高気圧の盛衰の周期が1週間から10日程度だからともっともらしい説明もできるが、気象庁は週間予報に晴れが続くのを見て梅雨明けを発表するのだから梅雨明け後に晴れやすいのは当然である。行楽に最も適した時期なのだが、近年は暑すぎることが多い。
暦は中国から伝わった二十四節気を使うことが多いが、日本独自の暦を雑節という。半夏は雑節のひとつで、ドクダミ科で臭気のある「半夏」が生えるころ。この日までに田植えが終わらないと「半夏半作」といって収穫が半減するとされた。梅雨末期にあたることから「半夏の大雨」ともいう。
昔は天変地異があったり、疫病が流行したり、農作物が不作になったりすると、もう一度新しい良い年が始まるようにと正月行事を繰り返す習慣があった。とくに旧暦の6月は梅雨時にあたり災害が多かったの「六月正月」という言葉が残っている。
秋の言葉
残暑にいよいよ嫌気がさすころ、大陸から乾いた北風が吹いてくる。西日本の船乗りはこの風を青北風(あおぎた)と呼んだ。青北風が吹き出すと空や海の色は深みを増して秋高気爽。秋が深まって北風が強まれば木枯らしとなる。
秋の落日の早さを、つるべが井戸底に落ちる勢いに喩えた俚諺。つるべとは、元は水をくみ上げる容器のことを指すが、井戸の滑車を含めた全体を含めることもある。交通事故を予防するため、毎年9月の終わりに秋の交通安全運動が実施されている。ライトは早めに点灯しよう。
前漢の時、淮南王であった劉安が著した『淮南子』という書物の「説林訓」の章に、「一葉落つるを見て、歳の将の暮れんとするを知り、瓶中の氷をみて、天下の寒きを知る」ということばがある。これが李子卿の「秋虫賦」には、「一葉落つ天地の秋」となって見え、『文録』に唐人の詩として載せられたものに「一葉落ちて天下の秋を知る」となって出ている。
『淮南子』での意味は、小さな現象から、大きな根本を悟らねばならぬというのであるが、いまではむしろ、小さな兆候から、衰え滅びようとする形勢を察する喩えに用いられる。
雁は冬鳥として日本に飛来する渡り鳥。雁を乗せて初秋から中秋にかけて吹く北風のことを伊豆や伊勢の漁師のことばで雁渡しという。風に乗って日本列島を南下してきた雁も山梨に差し掛かるころには疲れが見えたか、甲州街道沿いには雁が稜線ギリギリに越えていくという意味の雁ヶ腹摺山という名前の山が複数ある。
南宋の詩人陸放翁が病気にかかっていた秋のある日、ふいに、好きな酒の酔いに乗じて筆を走らせた。その勢いを、彼は自らの詩の中で、「晴天、霹靂を飛ばす」と、青空に突如として鳴り渡る雷で表現したのである。以来、この言葉はよく使われるようになり、突発の大事件、急激な大変動を形容するようになった。
昭和の芭蕉、種田山頭火は晩秋初冬が好きだった。福岡県の英彦山で詠んだのが「すべってころんで山がひっそり」である。よく独りで山に登る方なら情景が浮かぶはずだ。
空気が湿っていて寒い様子。秋の移動性高気圧は日本晴れをもたらすが、やや北に逸れて通ると、地形の関係で東京のまわりだけ雨が降って気温が急に下がることがある。秋晴れと湿気寒は案外背中合わせで油断ならないのである。
湿気寒は秋の季語だが梅雨時によく使う地域もある。
晩唐の詩人杜牧の、「山行」と題する詩の結句に、「霜葉は二月の花よりも紅なり」という有名なことばがある。晩秋の山に遊んで、夕日に映える美しい紅葉を賞したことを歌ったもの。二月の花は、通常は桃の花をさす。
匈奴と中国人が呼ぶ、馬に乗って戦争するのが得意なトルコ系の騎馬民族があった。あの無敵を誇る戦争上手な秦の始皇帝が万里の長城を築いたのも、もっぱら匈奴の侵入を防ぐためだったものだから、その武勇のほどもしのばれる。
北の大草原で春草、夏草をいっぱい食べた馬は、秋には肥え太って、乗り回せば乗り回すほど調子が出るようになる。この馬を自由自在に使って、今年も中国に攻め込んでくるだろう秋が来た。さあ、匈奴を警戒しなければといのがもとの意味。もとの意味はこんな武ばった話と結びついているが、今はもっぱら食欲の秋と結びつき、食が進んで太ることに使われる。
ブリの生態は完全には解明されていないが、富山湾で獲れるブリを追跡調査すると、夏の間、北海道近海で脂肪を蓄え、秋が来ると産卵場所の東シナ海を目指して大移動することがわかった。ブリの群れがちょうど北陸沖を通るころ、強い寒気が日本海上空を通過しはじめて大荒れとなる。このとき鳴り響く雷鳴が鰤起こしだ。海が時化れば時化るほどブリが湾内に逃れてくるため鰤起こしが鳴った後は豊漁になるという。
北宋の画家郭熙の山水画論を子の郭思がまとめた『林泉高致集』という書物に、「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠として滴(した)たるが如し、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として睡(ねむ)るが如し」ということばがある。また呂祖謙の『臥遊録』にも同じことばが見える。
ここから洞斎の『改正月令博物筌』では「山笑う」「山粧う」「山眠る」の部分を抜き出して、春秋冬の季語とした。夏の「山滴る」は「季に用ひざるも俳の掟て也」とされたが、現代では夏の季語とすることもある。
冬の言葉
長野と新潟の県境付近は日本屈指の多雪地帯のひとつ。北信地域では北に進むたびに雪が多くなって一番雪の積もっているところは今でも人の背丈を大きく超える。一里一尺はこの様子を表したことば。湿った雪は驚くほど重くなり、1㎥の雪塊が500kgを超えることもある。この重量に耐えうることをアピールするため、「100人載っても大丈夫」という有名なキャッチコピーが生まれた。
寒の入りから九日目は水が最も澄むという言い伝えがある。このため寒九に降る雨は豊年のしるしとされた。「寒仕込み」の日本酒、しょうゆ、みそは雑菌が繁殖しにくく、発酵がゆっくり進むため味に深みが増す。
唐を代表する漢詩の名人白居易が、左遷の憂き目にあって、香炉峯の麓に山荘を建てたおり、東壁に表題とそれに続く三首の詩を書きつけた。後の三首中の二首目のなかに「香炉峯の雪は簾を撥げて看る」とある。廬山の風光を愛し、第二の故郷と定めたのである。
日本では『枕草子』に登場する逸話が有名。御所に雪が積もったおり、中宮定子の「香炉峯の雪いかならん」という問いかけに応じて、清少納言は御簾を高く巻き上げてみせた。このことから今では女性が機知に富む喩えに用いられる。
木枯らしは「凩」とも書く。日本で独自に作られた国字と呼ばれるものである。「海に出て木枯帰るところなし」は山口誓子の代表作のひとつ。
『後漢書』の「王覇伝」に、「疾風に勁草を知り、厳霜に貞木を識る」ということばがある。劉秀は挙兵したものの、劣勢に立たされてほとんどの家臣が逃げだしてしまった。ただひとり残った王覇の意志の強さや義理堅さを称えたことばである。劉秀はのちに後漢王朝を興し、光武帝となる。
冬至は暦の上では冬の真ん中だが、寒さが最も厳しくなるのは年が明けて小寒や大寒のころである。
冬至のころ、北欧では極夜となるので木の幹を燃やして太陽の復活を祈った。これがフランスに伝わるとクリスマスケーキのブッシュ・ド・ノエルに変化したという。
「冬来たりなば春遠からじ」
「新しき年のはじめに豊年のしるしとなるらし雪の降るれば」(万葉集)。積雪は田植えの時期の渇水のおそれをなくし、虫害の少ない予兆。そんな科学は知らなくても、古来人びとは俚諺によって大雪をよろこんできた。
気象に関する出来事
| 1974年11月1日 | アメダス(AMeDAS)の運用が始まる |
| 1994年8月28日 | 初めの気象予報士試験が実施される 初回の合格者は500人 |
| 2000年6月1日 | 台風の階級から「小さい」「弱い」の表現が廃止される 2000年第1号から台風の名称が欧米名からアジア名に変更 2000年第1号はカンボジアが提案した『Damrey(象)』 |
| 2007年4月1日 | 予報用語の大幅な見直し 「藤田スケール」「猛暑日」「熱中症」を用語として使用開始 「宵のうち」を「夜のはじめごろ」に変更 |
| 2013年8月30日 | 「特別警報」の運用が始まる |
| 2014年12月2日 | 「東京」の観測地点が大手町から北の丸公園に移転する |
| 2015年7月7日 | ひまわり8号の正式運用が始まる |
| 2016年4月1日 | NHKラジオ第2で放送されている気象通報が音声合成による自動放送に変わる |
| 2017年7月4日 | 大雨と洪水に関する「危険度分布」の情報提供が始まる |
| 2019年2月1日 | 東京を除く関東甲信で大気現象及び視程の観測が自動化 目視観測の廃止に伴い「初雪」の基準、平年値が変更される |
| 2019年3月14日 | 台風の「強度予報」及び「暴風域に入る確率情報」が5日先まで延長される |
| 2019年11月1日 | NHKの原稿表現が「〇度〇分」から「〇点〇度」に変更される |
| 2019年11月13日 | 積雪・降雪の分布を推定する新しい雪の情報「現在の雪」の提供が始まる |
| 2019年12月 | 北陸3県、新潟県、福島県(会津地方)、山形県で「顕著な大雪に関する気象情報」の運用が始まる |
| 2020年2月3日 | 予報中枢を除く地方気象台で目視観測が終了し自動観測が始まる 「静岡」「宮崎」で積雪深計の観測が始まる |
| 2020年3月5日 | 千葉県柏市で「二重偏波気象レーダー」の初号機の運用が始まる 全国20か所の気象レーダーを順次更新へ |
| 2020年5月29日 | 5段階の警戒レベルの配色が決定する |
| 2020年7月1日 | 関東甲信地方を対象に「熱中症警戒アラート」の試験運用が始まる |
| 2020年9月9日 | 発達する熱帯低気圧の5日先までの進路や強さを台風情報として発表開始 |
| 2020年11月24日 | 気象庁が大手町から虎ノ門に移転する |
| 2021年1月 | 生物季節観測の大半が廃止され、植物 6 種目 9 現象を対象とした観測に変更される |
| 2021年2月24日 | 気象庁ホームページが大幅にリニューアルされる |
| 2021年3月2日 | アメダスにおける日照計の観測を終了 一方で湿度計を順次追加 |
| 2021年3月17日 | 「危険度分布」の愛称が「キキクル」に決定する |
| 2021年4月28日 | 全国で「熱中症警戒アラート」の運用が始まる |
| 2021年5月20日 | 「避難指示・避難勧告」が避難指示に一本化され、避難勧告ということばがなくなる 最も切迫した状態は「災害発生情報」から「緊急安全確保」に変更 |
| 2021年6月17日 | 線状降水帯が発生した場合に発表する「顕著な大雨に関する気象情報」の運用が始まる |
| 2021年11月10日 | 積雪の深さと降雪量の6時間先までの予報「今後の雪」を開始する 「現在の雪」ページは「今後の雪」に統合される |
| 2021年12月 | 滋賀県、兵庫県、京都府、広島県、岡山県、島根県、鳥取県でも「顕著な大雪に関する気象情報」の運用が始まる |
| 2022年1月31日 | 「全般天気週間予報」が廃止される 週間予報は図情報による発表となる |
| 2022年6月1日 | 線状降水帯の予測を開始する 大まかな地域を対象に半日前からの情報提供を始める |
| 2022年12月13日 | ひまわり9号の正式運用が始まる |
| 2023年5月25日 | 「顕著な大雨に関する気象情報」の発表が最大30分程度前倒しされる |
| 2024年3月26日 | 東京と大阪を除き、大気現象及び視程の観測が自動化される 目視観測は「初霜」「初氷」「初冠雪」のみとなる |
| 2024年4月24日 | 「熱中症特別警戒アラート」の運用が始まる |
| 2024年5月27日 | 線状降水帯「半日前予測情報」の発表対象が都道府県単位になる |
| 2025年3月31日 | 固定電話の天気予報サービス「177」が廃止される |
| 2025年8月27日 | 初霜と初氷の目視観測が廃止される |
| 2025年10月12日 | ひまわり9号に障害が発生 バックアップ中のひまわり8号による観測に切り替え 11月26日にひわまり9号による情報提供を再開 |
| 2026年3月31日 | ラジオ第2放送が廃止される 気象通報は…… |
| 2026年暖候期 | 警報・注意報体系 大幅に変更予定 |
| 2030年 | ひまわり10号運用開始予定 |
